隅でド派手

運命が許すあいだ、嬉々として進め。

 返事を書くのも億劫だ。わがはいは気分屋なのだ。例の教師が感想文を送ってきた。おおよそ国語を担当していたとは思われない感想文である。〜だとであるは併用不可であったか。

人間誰しも牙を研ぎ澄ませておくべきなのだ。一度小説家を目指した人間がそんなものか。わたくしは気づいたのである。校閲再考が苦手であれ、わたくしはとめどなく考えが溢れ、そのものたちのためなら服従しよう。何も己の身勝手さが褒められたものではないことなど百も承知だがわたく氏は君たちよりもずっと前からこの身勝手な自分、気分屋な自分たちと一緒に過ごし飼い殺してきたのである!

 今朝、朝刊を読んでいると 大阪の飲食店にある蟹のモニュメントが壊され、犯人が弁償したという記事があった。店の社長は二人の犯人たちもクビになり、彼らもまたコロナの被害者である」と言っていた。そんな事があるものか。元々眠っていた元来の気色悪い性が目を出しただけであろう。われわれは覚えておかなくてはならない!いついかなる時でも様々な立場に陥るのである。

 このように出来事を引用して話すたびに思う。わたくしは出来事や物語、作品の説明というのが下手くそである。なぜならわたくし、自らの中で生まれた感情や思想には関心が深いのであるが、すでにある事象の説明は他の誰かの方が上手いと考えるからだこの時点でどちらかと言うと今の仕事には向いていないのかもしれない。仕事を向いている向いていないで帰るのは非常に!危険であると思う。こういうのは消去法だ。

 最近になって頭の中に思い浮かんでくる言葉がある。 天は人の上に人をつくらず云々・・・ である。きちんと原文を読んだ事がないので今週触れる機会があるなら是非とも読んでみたい。果たしてこの言葉通り生きるとどのような性格になるのであろう。しかしながらあながち間違っていないような気がする。わたくしは芸術家が羨ましくて仕方がなかったがおそらく構成力がないしそういうことを考えたくないのだと思う。というか考えられない・・・好みでしか配置できないのである。いや、こうしてできないことに言及するのは良くない。センスはあることもあると思ってはいるが・・・果たして奴らの脳内はどういうふうになっているのであろう。わたくしのこれみたくごちゃごちゃしているのであろうか。嗚呼、恥ずかしい!あっているかもわからないことを読ませる見苦しさ!しかしながらとめどなくあふれるこれらを書き留めなくては消えてしまうのです!いらない部分を削るのは未来でもできましょうが、いる分を残しておくのは過去の、今の自分にしかできないのです!

それでは、本日のうんこして化粧して準備してきます。ご機嫌よう!