21 中途半端と冗談
一番駄目なのは、中途半端でいることだからね。
この言葉が本能的に苦手だった。
本当に本当にわたしは何から何まで中途半端で、何一つとして中途半端ではないことがないくらい、中途半端だと思う。
だから自分をきちんと説明することって難しい。いろんな自分がいることは百も承知で、中途半端でない部分がまあほぼないんだけれど、中途半端な経験と中途半端な知識で生きてきた。これは褒められたことではないし、継続してなるべく中途半端から脱せるようにしたいとも、思っていた。
でも疲れた。うまく言えないけれど、これからも経験と知識はつけていきたい。でも、中途半端は駄目だという言葉でがんじがらめになるのはやめたい。
わたしの自我は、考えること、考え続けること、哲学をすること、自然を愛すこと、芸術や営みを、楽しむこと。
今問題であるのは、ここでしか、それを示せないこと。
大きな問題だった、わたしはわたしを過大評価していた。そのことでよい影響の方が多かったから。
けれども今は、知った。あれはごまかしであった。一から作り直す。何度でも、ベースを、どんな方法でもいい。一旦休む方法でも、進みながら掴んでいく方法でも。
人と話すと自信がなくなる。でもここでなら、自分の答えを出せそうな気がする。
会社見学に行った。しんどかった。人が多ければ多い仕事場ほど焦る。関わる必要がなくても、焦る。最近では頻繁に電車の中で席を変えることが多くなった。成長のつもりだ。
一人の人が言った。
「先日ね、肩が上がらないので仕事お休みします、って電話が来たんです。なので、切り落としたらどうですか、って言っておきました。」
もうこの一言で拒絶反応が出た。
思い出す、震災を受けた人へのメッセージを小学校の卒業式で宣言することになったとき、担任に言われた。
「これ、被災した人の前で言える?」
貧困地域ではご飯もろくにたべれないところがあるからご飯を残すな、というのもこれに似ているだろうか。
考える。考える。無関係ではないから。
本当に肩を切り落とさなければならなくなる、自分が被災して何か言葉をかけられる、自分が貧困になる。
考える。自分が、同じ立場になったとき、言える?その冗談、言える?
担任の声で、そのフレーズがいつまでもわたしに訴えかける。12歳の時から、ずっと。